2009年09月

2009年09月30日

●三つ目の「へそ」は、「有って、無くなる」「在って、無くなる」 - HMU 達弥西心

では、最後のへそ、三つ目のへそにいきます。

三つ目のへそはですね、「始まって、無くなる」、ということですね。ここでは、「人生は始まって終わるのではなく、有って、やがて無くなるのだ」、ということですね。これが三番目のへそ。

私は、いつも人生というのは、生まれて生きて死んでいくことだという話をしますが、正しく言うと、生まれてではなく、有って、出現して、有る。有って、そして無くなる。跡形もなく無くなるのが、人生。

そこで、この無くなるという意識をきれいに分かっていかないと、この宇宙というのが理解できない。どこか少しは残っていくんではないかな。残って欲しい、というのがあったとしても、残っていくんじゃないか、残せるんじゃないか、と思っているところに問題があって、跡形もなく消えていくという、消していくという、それが大事なことだと言うんですね。

すなわち自分が生まれて生きていく時間が80年だとすると、次に来る人たちも80年生きたいわけですから、順繰りになって、要するにこれはもう、いなくならないと始まらない、というわけです。

だからあの、ラストライブの最後の時に言ったんですけど、冗談みたいに言いましたけど、実際そうなんですよね。あの、団塊の世代という人たちが、時代をつくってきました。戦争に負けてから、一気にそれで急上昇していくでしょ。経済成長を。でもその人たちはみんな、あの団塊の世代の人たちが頑張ったんですよね。

頑張ったんで、それで機械化がどんどんどんどん進んでいく。それで、ここで大事なのが、キーワードが電子化なんだよね。電子化の時代というのは後の、団塊の世代の後の人たちの独壇場というか、現場なんですね。

そうすると、団塊の世代たちは、ここで機械化がここまで進んできて、今ほんとにね、世の中のこと全部、機械化が進んだと言っているけれども、電子化ですよね。電子化が進んだんですね。

それは、私、大学の五年目にですね、「経営機械化論」という講義を取って、それを、おお!と思ったのが、コンピュータはどういう仕組みなのか、というのを教えるんです。それはコンピュータというのは、当時ね、教える先生もですね、経営を機械化するためのものだと思って、機械化を進めるためのものがコンピュータだと思っていたんです。

だから、例えばそろばんでやっていたような人たちが、どんどん仕事がなくなる、ということをすごく危機感を覚えた時代なんですね。それで大きなコンピュータが入ってくると、仕事がどんどんなくなる、というふうに思ったんですけど、実はそういうふうに思ったけれども、そういうふうな機械化じゃないんだ。コンピュータは電子化なんだよね。

電子化というのは、機械というのはこうやってポンと押すと、その力がトンとかかって、答えが出てくる、という仕事ができるわけだけれども、電子化というのは電子に換えて動くわけですから、もう全然、霊界の世界というか、それに近いんだよね。

だから例えば東京まで行くんだったら、ちゃんと電車に乗って行かなきゃいけないのが、ポーンと行ってポーンと帰って来られる、という世界。電子の世界になっていった。

ということは、これから最後の時にひと花咲かせるのは団塊の世代が咲かせると思いますが、団塊の世代がたくさんいるということは、一気にたくさんいなくなります。

ガガガッといなくなる。そうして全く新しいところ、新しい時代というのが姿を現してくると思います。

これはもう予測というか、霊界も言っているんですけど、これから変わるところが一番大きな問題、ポイント。そうなってくると、人間は人口がドッと減ってくるね。多いところが減るわけですから。多分これから、たくさん新聞とかテレビで、有名人だったり、結構名前知っている団塊の世代が随分頑張っていたから、人も多かったから、頑張っている人がたくさんいたよね。それが次々に亡くなってくるよね。

それでそれが寂しいな、じゃなくて、それを送ったことで、全く新しい世界ができてくる。その時に人口をどれだけ少なくしてやっていくか、ということが、どうも霊界のポイントですね。少子化の問題は霊界の意図のような気がします。だから今の、新型インフルエンザの問題、あれは不気味ですよね。

今回の、みんなのあの慌てようというのは、なんていうか、予防ができないし、かかっちゃったらどうするの、見守るしかない、ということで慌てているわけですよね。だからもう、免疫力のある人、あるいは、自分自身との対話をしっかりする人しか残らない、というかね。というふうに思いますね。霊界の都合から言うとそうだよね。

天から言うと、そうやってちゃんと生きてくれる人だけを残して。しかも人口を減らしていこうというところに持っていきたいわけだと思うのです。

だから、始まって無くなる、というね。人生は始まって終わるんではなく、有って無くなるんだ、ということね。無くなるということを大事なポイントとして捉えてください、ということです。そしてそれが四つあります。

達弥西心

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2009年09月29日

●明らかになる七番目、「明らかになるたびに自分の念い方が変わっていく」 - HMU 達弥西心

そして七番目。いろんなことを今、六つ話をしましたけれども、いろんなことが明らかになっていきます。「明らかになるたびに自分の念い方が変わっていく」ということです。明らかになるたびに自分の念い方が変わっていく。少しずつ、少しずつ変わっていくんです。変わっていくと、念い方が変わっていくと、現象も、自分を取り巻く現象もどんどん変わっていきますよね。ああ、分かった。そういうことだったのか、と分かってくると、だんだん天の意志に近づいてくるということですよね。

分からないままにやっていたら、人間の勝手な念いで、こうじゃないか、ああじゃないか、こうに違いない、というふうに思い込んでやりますが、そうじゃない。そういう仕組みではない。

いくら念いが全部通じるとか言ってもですね、それは天意に沿っている、というかな、なければどんなにしても。頑張ったら全部うまくいくか、と言ったらそうはいかないんです。頑張る時に必ず天意に沿って頑張らないとならない、というのはそういうことですね。はい。ということです。これが二つ目のへそです。

達弥西心

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2009年09月28日

●明らかになる六番目、「目に見えない世界の原因の根源、もともとのおおもとは念いであること」 - HMU 達弥西心

では、六番目。「目に見えない世界の原因の根源、もともとのおおもとは念いであること」。念いである、ということです。

どう思ったか、強くそれを思えば思うほど、鮮やかにそれを描けば描くほど、その通りになってくる、という。その通りになってきます。目に見えない世界の原因の根源は念いである、ということは、天は、念いのかたまりである、ということですね。

天ってなんですか?と、意識体とかなんとかと言っていますけど、要するに、念いのかたまりだよね。その小さなかたまりが、自分自身だよね。念いだから見えないんだけれど。

その自分自身を動かすのが、自分自身と会話する方法は、この念いで一致しないとダメだ、ということ。だから、最初に話した話につながってくるんですけど、どういう念いで聞いたか、と言うことですね。一番大事なことは、天はどうしたいのか?ということにつながってくるわけだから、天はどうしたいんですか?自分自身はどうしたいんですか?ということの「自分との会話」をしていけば、どんどんどんどん「自分との会話」が進んでいくけれども、自分がどうしたいんだけど、と言った時にこれが自分自身や天と念いが合えばいいんだけど、合わなかった時はことごとくズレていく、あるいは「自分との会話」が進まなくなっていく、何を言っているかさっぱりわからなくなってくる、ということですよね。

ですから、大事なキーワードは何かと言うと、『自分自身の念いになって、自分自身の身になって「自分との会話」すること』だね。天の念いに沿って「自分との会話」する、天の身になって「自分との会話」すること、ですよね。だから、天は念いのかたまりである、ということ。それがだんだん分かってくる。明らかになってくる。

今のことでついでに、現象というのは、この世に起こる現象というのもそう、モノにならなくても、こういうことを人が行動するとか、何とかというのは、念いがつくるわけですね。だから人を殺してやろうというのは、その人を殺してやりたいという念い、消してしまいたいという念いがつくるわけですよね。全部。人々の動きもそうですよ。

そういうふうに動きやすい時流と動きにくい時流というのがありますけれども、その方は時流鑑定の方で出していかなければいけないけれどもね。

でも、念いがつくる。全然念いのかかっていない現象というのは起こらない、と。絶対起こらないということ。念いのかかっていないモノというのは出現しようがない、ということだね。出現できないということですね。

達弥西心

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2009年09月27日

●明らかになる五番目、「原因と結果の法則をもって二つの世界を理解する」 - HMU 達弥西心

そしてそれを分かるためにはですね、五番目。「原因と結果の法則をもって二つの世界を理解する」ということです。

この見える世界・見えない世界というのを、分からないと言ってしまうと分からないから、これをなんとか分かろうとするためには、必ず原因があって、必ず結果が起こる、というね。

原因・結果、因果律の法則というのは、この見える世界と見えない世界、見えない世界があって、見える世界が後に付いてくるという、そういうことですよね。そういうことを理解すると、二つの世界を理解することができる。はい。原因と結果というのは分かりますね。こういう原因があるからこういう結果が起こるということだよね。

ただし、ここでたいていの人が陥るのは、見える世界の原因と、見える世界の結果。

これも確かに因果の法則としてありますよね。

例えば、自転車のペダルを回すと、チェーンが回って車輪が動くという、これは見える世界の力のかけ方、見える世界の結果ですよね。

それから、犯罪を裁く時というのは、必ず証拠があって、原因があって、結果があるよね、という。だけど一番分かりやすいのは、この間の中央大学の教授の、やっぱり嫉妬だったんですよね。まあはっきり分からないですけど、たぶん身内、生徒か、同僚か、誰かだろう、というふうに思っていましたが、案の定そうでしたよね。教え子だったと言うんですけれども、これなんかで言ったら、動機を話さない。「動機は今は言えない」と言っていますけど、それは恐らく目に見える世界の絶対に説明のつかないもの、というのがあるはずです。

だから目に見えるところで殺したよね、という、これで裁かれます。殺したと、間違いなく殺しました、と言ったら、この人は殺人罪で起訴されます。裁判で刑が確定します。

これはこの世の世界の目に見える原因があって、殺したという原因があって、目に見える結果、裁かれる、という結果になってきますね。

これが、みんなは原因と結果の法則、と思っていますけど、なんでこの人を殺したの?なんで殺したいと思ったの?というのは。目に見えない世界だよね。心の中ですよね。

恐らく心の中で自分自身同士のいろんな嫉妬とか何かがあって、もうこれはやらないとどうにもならない、と思ったはずです。それでやっていますよね。だからこの殺したというのは結果だよね。ある意味で。目に見える世界ではじめて起こしたことが結果なんです。目に見えない世界で、心の中でどう思ったか、という原因があって、そして結果が起こっていますよね。その結果はまた原因となって、結果となるわけですから、必ずこういうふうに動くわけですね。

そうすると、ここの部分が何なのか、ということが目に見えない世界の分野。でも、ここの世界で原因を作らなければ、ここで殺す、という結果は犯さなかったはずですよね。これが何なのか、ということ。これが重要に関わってきている。重要と言うよりも、すべて関わっているよね。これがもしなかったら、この原因がなかったら、これにはならないから、絶対に、ですよね。

だから前も言いましたけど、ずっと昔にも言ったけど、泥棒というのは、人のものを盗ったら泥棒になりますけども、盗ろうと思ったけれども盗らなかったら泥棒じゃないんですよね、この世の法律では。

だけど霊界から言うともう、盗ってやろう、と思った時点で、その人は泥棒なんですよね。泥棒なんです。そういうことは目に見えない世界に原因がある、ということだね。原因と結果の法則というのは、そういうこと。

必ず原因は目に見えない世界に求めること。結果は目に見える世界に求めること。そうするとはじめて、目に見える世界と見えない世界の関係が分かってくる。分かりますね。

達弥西心

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2009年09月26日

●明らかになる四番目、「もちろん見える世界の理解だけでも分からないことがある」 - HMU 達弥西心

四番目。「もちろん見える世界の理解だけでも分からないことがある」ということ。

これは分かりますよね。見える世界だけじゃ、説明のつかないことがありますよね。

ということは、さっき言った三番目は、見えない世界のことだけの理解だけでは分からないことがある、ということ。けれども見えない世界のことをよく分かる人が人生うまくいっているか、というと、そうではないですよね。

逆に言うと、見える世界に自信を持っている人がいたとして、でも不思議なことにこれが、なんかうまくいかないんだよね、ということを感じる。両方がコラボしている、ということがよく分からないと、分からないよね。片方だけじゃないというね。

まあだいたい、こういうところに対して批判する人というのは、片方から見た見方しかしないからね。分からないんですね。逆に今度は見える世界のことしか分からない人にいくら説明してもまた分からないしね。

そこでやっぱり大事なことは、真ん中にまたがるようにしてやっていく、逆の天のはたらき、逆の理解というか、やっぱりとても大事なところですよね、ということを言っているんですね。

達弥西心

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2009年09月25日

●明らかになる三番目、「見えない世界の理解。見えない世界はこういうことなんだという理解だけではわからないことがある」 - HMU 達弥西心

次、三番目。見える世界の見えない的理解が大事だ、と言っているんですが、「見えない世界の理解。見えない世界はこういうことなんだという理解だけではわからないことがある」ということです。

はい、これが意外と陥りやすい。私は見えないことがよく分かる、という人が陥りやすいのが、ここだよね。見えない世界はこうなって、こうなっている、と。もう幻想の世界というか、自分が想像の世界だけで、あるいは見えないことが感じる、という人たちがみんな分かるかというと、分からないんだよね。見えない世界だけの理解では分からない。なぜならば、この世を今生きている我々は、見える世界を生きているわけだから、見えない世界の理解だけでは分からないことがあるんですね。

達弥西心

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2009年09月24日

●明らかになる二番目、「見える世界の見えない的理解」 - HMU 達弥西心

だから、二番目としてね、「見える世界の見えない的理解」です。

これまた分かりにくいね。見える世界の見えない的理解をする、という。これをわかりやすく言うと、目に見えるモノがここにポンとある。これは成分が何で、どういうもので出来ていて、というのは見える世界の見える的理解だよね。だけど、これが出てくるということは、目に見えないところで誰かの念いがあって、こんなのを作ろう、と思ったはずだよね。ということは、目に見えるモノとして現れているけど、目に見えるモノの向こう側というか、このモノの中には見えないものが充分に関わっているし、この見えないものが関わらない限りこういうモノというのはできないよね、と思うのが見える世界の見えない的理解ですよね。だからそれが分かってくると、この絵には念いがこもっている、この絵には念いがこもってない、というようなことが分かってくるし、モノには念いが宿る、ということもね、それが分からないですよね。分からない。だけど、だんだん、だんだん分かってくる。これが見える世界の見えない的理解。

それで、見えない世界というのはどこにあるか、と言うと、あの世とかなんとか言うから遠いとこにあるみたいに思いますけど、すぐ横ですからね。すぐ横というか、一緒に、一体としてあるわけですね。目に見える世界そのものが見えない世界でもある、というかな。

だからある意味でこの世というのは、目に見えない世界の中に起こった目に見える現象。あ、これ一番分かりやすいね。目に見えない世界がごく当たり前にある。宇宙というのは目に見えない世界のことですから、元々。目に見えない世界に起こった目に見える現象の中を、我々は生きている、ということ。だから目に見える現象は一時的なものだから、必ず限りがあって消えていくと。すなわち言葉で言うと、「幻である」ということだね。

だから、明らかになるのは見える世界の見えない的理解ですね。見える世界の見える的理解をして行ったら半端。中途半端ですね。はい。

達弥西心

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2009年09月23日

●明らかになる一番目、「見えると見えないのコラボレーションの意味」 - HMU 達弥西心

はい、まずはですね、一番目は「見えると見えないのコラボレーションの意味が明らかになっていく」ということです。

コラボレーションというのは、この世の中は見える世界だから、見える世界だけで動いているとは、少なくとも皆さんは思ってないと思います。見える世界が拡がっているけれども、そのすぐ隣で見えない世界も拡がっている、ということだよね。あるというのはわかっていると思いますね。それが実は協力関係にあって、コラボレーションしている、という、コラボしている、という状態ですよね。

このからだだってそうだね。こうやってこの世に、「した」の世界に生まれてきたこのからだの中に、目に見えない世界、「うえ」の世界にいた自分自身が入ってきて、ここで二つがコラボしていくわけでしょ。それでこの二つでやっていくという、これがはたらきだよね。天のはたらきをからだはからだなりにやっている、自分自身は自分自身なりにやっている、というのが、今、私たちの人生というものですよね。

こうやっていくでしょ。そしてこのからだの方は、必ず時がくると朽ちていくわけですから、いなくなります。無くなりますよね。無くなったら、ずっと生き続ける自分自身が元いたところに戻りますよね。うえに戻りますよね。このことを繰り返しているわけです。これを「輪廻転生」と言いますけど、そういうことが、意味です。

なんでこんなことをしているのですか、ということですよね。もう答えは一つ。それを派遣して、どちらの管理者でもある天、からだの管理者である天、そして自分自身の管理者である天が、この二つをジョイントさせることで、自分自身は自分自身の修行をする、修行をするというか、いろいろな体験をする。

からだはからだなりにこうやって、ほんとに空中からこうやってクシュッと、つくった人間の形みたいなものですよ。天の方側からすればですよ。我々はこうやって生まれてきた、と言うんだけれども、あの、生まれるという仕組みというのは、ほんとにこう、なんにもないところからでしょ。

なんにもないところからゴボゴボゴボと出てくるわけですから、ほんとに長い時間、今はまだゆっくり動いているから分かりやすいけども、分かりやすいというか、疑問を感じないかもしれないけれど、ずっと遠くからこの動きを見ていたら、ほんとに何もないところから煙のようにゴボゴボと出てきて、ゴボゴボと無くなっていく、というのを繰り返しているわけだから、なんていうかな、我々は目に見えない方が無いと思っているけれども、目に見えない方がすごく信頼がおけて、しっかりとぐるぐる回っている。だけどここでゴボゴボと出て来てゴボゴボと無くなっていくという、これを何度も繰り返して、速いスピードで見たら、ほんとに何にもないところからウワウワッとなってウワッと消えているということだよね。

それを一緒にやっているということは、どちらの管理者でもある天からするとですね、この二人が一緒になっている時にこそ、天のはたらきをさせたい、ということになるよね。

天というのは光も司っているし、闇も司っている。だから光の天もいて、闇の天がいるというのは、当然だよね。それでそれを動かすために逆のはたらきをする逆の天というのがいて、光と闇を行ったり来たりしながら、つくっているわけですよね。はい。

このコラボレーションね。なぜこんな特殊なことをやっているのか、ということ、そこには大きな意味があって、いやあ、ちょっとそういうふうな仕組みにしてみたんだよ、などとは天は絶対に言わない。ね。思ってみればすごく不思議な世界だよね。そこに意思が絶対にあるはずだ、ということ。意志がね。意図、というかね。

達弥西心

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2009年09月22日

●二つ目の「へそ」は、「明らかになる(そういうことだったのかと納得する)」 - HMU 達弥西心

それでは、二つ目のへそにいきます。明らかになる(そういうことだったのかと納得すること)ということです。

今、そういう形で仕組みというのがわかったと思いますね。集めることが目的でほとんどの人が生きているかもしれないけれども、それじゃあないよね、 なぜならば手放すことを全員がするわけだから。その手放すことが目的でないと変だよね、と言っているわけ。でも、手放すことをやることによって寂しさが伴うのはなぜ?ということになってくる。寂しいということは、何か違うよね、と。集める、手放す、そして手放したらその次に目的があるはずだ、と。この仕組みですよね。この仕組みが分かるといいんで、ああ、そういうことだったのか、と明らかになる。これが、へそ。

はい、これはどこでわからなきゃいけないかというと、今、集めるというのはこの世の話。手放すというのはこの世からあの世へ行く話ね。ということだよね。そのさらに向こうと言ったら、見えない世界の話ですね。

見える世界に生きる。そして、見えると見えないにまたがるところを生きる。そして、見えないに行く。このプロセスは絶対に、どんなに誰がどう言おうと流れとして必ずあるよね。順番としてね。

だから、見える、見えない、プラス、そして、見えない、というふうにいくということは、集めるということと、手放すということを経て、その向こうに何かはたらきがあるはずだ。ということだね。

そうすると人間はそのどちらも体験するものだから、からだという、そのからだを主体に生きていく世界と、両方にうまくバランスを取っていく世界と、そして最後には全部無くなっていくという世界に突入するわけですから、ここは何で片づけるかというと、どういうはたらきで片づけるかというと、「逆というはたらき」で片づけるしかないわけですよ。

右回りにするかと思ったら、右回りをしながら必ず左回りを同時に、同じその大きさ、同じ強さ、同じ速さで回さないと、バランスが取れないというやつね。右回りだったら全部が右回りになったら振り回されちゃうんですね。だから右回りを回りながら、内側は左回りに回っているから、バランスが取れるわけ。この、「右回りに回っている内側で、同時に左回りに回るというはたらき」が「逆」というはたらきなんです。

逆というのは、片方だけを逆と言っているんではなくて、こっちの左回りからすると右回りは逆だよね。右回りからすると左回りは逆だよね、と。その逆というのが同じバランスで動かないと、バランスは取れないよね、ということを言っているわけですよね。これを「逆のはたらき」と言います。

だから●●●●●さんは、要するに悪者なのか、いいひとなのか、という話で。まあ●●●●●からいうとサタンとされているところがあって、悪者になっているわけですけれども、正義の味方がいる反面、というか、いる分だけ、この世的に悪いことをする人が半分いないとバランスが保てないということだよね。はい。

だから右回りのはたらきをする人と、左回りのはたらきをする人。目に見える方からいうと、右回りが正義であったら、左回りは悪になってくるんだけれども、全体的に見ると正義も悪もバランスよくあって、はじめて成り立っていくわけですよね。うん。それが逆という発想。

逆というのは片方から見て逆じゃなくて、片方から見るんだったら光に対する闇というのが逆ですよ。反対という意味ではね。闇から見ると、光が反対という意味です。

でもこの間のバランスを取りながら、ほんとに逆回りしていくというのは、片方から見て片方が逆、片方から見て片方が逆、というのが逆ということ。だから、要するに写真を撮るときのフラッシュみたいなもの。パッ、パッ、パッ、とこう、消えたり点いたりするということ。パッ、パッ、パッ、パッ、と点滅する感じ。ある時は光、ある時は闇、という、それが交互にくるとか、不規則にくるとか。そういうのが逆だよね。

「どちらが逆ですか?」と言ったら、いかにも闇の方が逆みたいに見えるけれども、光の方が逆になったりするよね。それで、そういうものは自分の心の中に持っていますよね。時にはいいことをしたいと思うし、時には悪いことをやっぱり考えるよね。

同時にやっぱり考えているよ。でも、どっちも正しいわけではなくて、いいことというのはこの世的にいいことであって。

それを逆に言うと、例えば自分が悪者になって、かき回すことも大事なことで、そういうふうにかき回すことによって、全体がまとまることだってあるわけで。悪者になるっていうのも逆だよね。全部逆。その悪者の中にいて、ちょっといいことを言うのがいたとしたら、こっちの人はいいひと、ということではない。この世の中は全部分けてしまうけど、こっちにとってこっち、こっちにとってこっちが全部逆になるということですよね。ということ。

さあ、その、明らかになるという。それが逆ということが出てくる理由なんですね。ここでね。はい。分かったか、分かんないか…。まあ、いいですね。これがね、七つあるんですね。どんなことが明らかになるか、ということね。

達弥西心

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2009年09月21日

●寂しくなる理由の四番目、「有限で消滅する存在として生きていく意味がわからないから」 - HMU 達弥西心

そして寂しくなる理由の四番目。いまのことをまとめたようなかっこうですけども、「有限で消滅する存在として生きていく意味がわからないから」です。限りがあって、しかも限りがきたらそれは無くなっていくという存在として生きていく。ですけども、その意味が分からない。何でそんなことするの、と。分からないから寂しい。それが分かったたら、ああこういうことなんですね、ということが分かれば寂しくないよね。

でももう、皆さん分かりますよね。有限であるということと、消滅する存在として今生きていく意味、というのがちゃんとわかっていますよね。

だから、天のはたらきをするためですよ。この間にからだを持たされるのは天のはたらきをするため。もともとからだの主も天ですし、自分自身の主も天ですから、人間の人生の管理者は、間違いなく天ですよね。それは天がこうやってからだを持たせてくれたその意味というのを考えると、天が自分の都合のためにつくっているわけですから、天の都合のために生きていかなきゃ意味がないよね、というわけです。

それがなんか、自分だけで意味があるような気がして、考えてさまようけれども、そこに無いんだから、無いんだからどんなに考えたって、ああ自分はこういう意味なんだと、いくら言っても虚しくなってくるよね。

いや、私はこれこれするために生まれてきたんだと、それははたらきはそういうふうにしたかもしれないけれども、それがほんとの意味だったのか、というとね、そうではない。それも大きな意味で、そのはたらきが天のはたらきと一致していればそれは意味があることでしょうけど、全然別のことで、これだけのことをやったんだと言っても、それがどうした?という感じだよね。

よく、あのね、侵略者というか、いろいろ攻めて全部自分のものに国をどんどんどんどんしていく、と。もう攻めるところが無くなった、という時には、攻めることが目的で、征服することが自分の目的だ、と言う王様がいたとしてもね、全部攻めきってしまうと虚しくなる。なんで?なんでこんなことしているんだろう?と。することがなくなってくると。ですよね。

だから天のはたらきというのは、天のはたらきを全部やり切った、と言う人はいなくて、どんなに言われてもレベルはどんどんどんどん上がってくるし、絶対にピタッとしたものをやれるわけがないわけで、やれなかったなあ、と残るから、また次生まれてきてやろう、ということになってくるわけですよね。だから、天のはたらきを全部やり切った人、というのはいないと思いますし、まあそれだけ天の念いというのを分かる人というのもいないだろうと思うし。少し、一部は分かってもね。ああ、こうかな、とね。少しでも、少しでも近いことをやっていくんですね。寂しくなるのはそういう理由ですよね。

だから人と交流することで楽しくさせようと思っていても、やがて寂しくなるのはそういう理由ですよ。そこに目的がないからだよね。

例えば、仕事でこれだけの成果を上げて、他の人たちからも評価されたとしても、それで満足と、そうは言わないよね。なんか違う、というね。こうでよかったんだろうかと思うのは、そこにあると思う。そういうことを思いますね。

そうすると、およそこの世の中で、我々がモノとして存在し、そしてモノに囲まれて生きていくこの世界の中で、これを使って天のはたらきができないか、と天は要求している。そこが分かってくると、この世の中で何かモノを集めること、それから作り上げること、成し遂げること、ということに目的を持ってくると、うん、一応は達成した、と。でも通過点だよね。その次どうなるか、と。

それは何で分かるかというと、集めたものというのは最後に全部手放さないといけないでしょ。手放すということは、最終的なところに目的に置かないにしても、自然の流れとして集めたものは全部手放す、というところに来るということは、その中に集めるということが目的ではないということだよね。成し遂げたって全部消えていくわけだから。全部手放していくわけでしょ。

全部別れていくわけですから、ある意味で言ったら、別れるというところに目的を持つんだったらそれは分かるけれども、集めることが目的ではない。集めることは通過点である、ということだよね。

そうするとお金の動きなんかもそういうことだよね。逆に言うと、お金というのはそれを使って、自分が手放すためにお金を集める、と言った方が近いかな。近いと思いますね。

だから、目的が、自分が願ってなくても必ず手放すことになるんです。全部捨てるじゃない。すべて別れるでしょ。その中に目的を求めるんだったら、ああ、そうかもしれないね、となるけれども。でも、手放すということが目的だとしたら寂しくなるね、と言っているわけだからさ。じゃあその手前の、集めることに目的を持ったらいいか、というと、集めても必ず手放すわけだから、ね。

そうするとどうもこの、集めるということを第一の目的としたとしても、ああ、そうじゃなかった。手放すことなんだ、というね。これを目的に持っていったら、なんとなくは、ああそうか、と分かるんだけども、でも寂しくなるということは、ここで寂しくなるということは、その向こうだよね。その次だよね。集めて、手放して、そのプロセスの中で何を目指したのか、何を目指すのか、ということ。

何をするのかというと、やっぱり自分自身が主体だと思うし、自分自身が天のはたらきを充分に行なうためにからだを道具として使ってくれた、と。そうなってくると寂しさというのは少し、少なくなっていくんじゃないかな。これを言っているんですよね、『ことばのよわんよ掘戮涼罎任諭これが、一つ目のへそです。

達弥西心

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