2009年06月21日

●知識と意識 - HMU 達弥西心

「目的」は何か、目的を果たすとはどうすることかと考えることは、三つの毒から脱するとはどういうことかと考えることになる。難行ではなく易行、苦行ではなく楽行によって、三つの毒から脱するという試みである。明るく元気に生きていきたい。楽しく生きていきたい。生まれてきてよかった、生きてきてよかったと心の底から思いたい。悲しいのは嫌だ。
からだを極限までもっていくのではない。知識でもない。
とすると、意識である。意識を上げていく。ぐんぐんと上げていくのだ。この程度だという自分の意識を、無理やりに上げていくのだ。こころの回転数がぐんぐん上がっていく。こころのエンジンが焼き切れたら、大きなエンジンに積みかえる。アタマを使うのではなく、こころを使うのだ。その方法がある。自分とどんどん会話するのだ。会話しながら意識を上げていく。そう、自分と話ができる!のだ。自分のことは自分で決めることができるのだ。私はその方法を教えている。
達弥西心

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2009年06月20日

●人生は苦なのか(釈尊の戒・定・慧) - HMU 達弥西心

090613●そういうふうにつくられているのかな で、「喜んで生きていきたいはずの人間は、三つの毒を持っている人間は、悲しいと、私は思う。この三つの毒から脱する方法として釈尊は、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の実践を教えている。
戒、すなわち、ものごとの道理をよくわきまえ、定、すなわち、こころを穏やかに保ち、慧、すなわち、悪事を離れ善事を行うこと、という。」と書いた。「できるのかな。一般社会の日常生活の中で、できるのかな。やらないといけないよね。苦行だね。悲しいねぇ。」とも書いた。
ふと、難行苦行という言葉があるなら、易行楽行というもののきっとあるはずだと思った。およそこの宇宙は対称性によって構築されているからだ。光と闇、善と悪、難と易、苦と楽という具合に、だ。
三つの毒から脱するために、難でなく易を、苦でなく楽を使うことはできないのかと考える。「目的」を果たせば良いのだと考える。
達弥西心


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2009年06月19日

●人生は降り積もる雪だ - HMU 達弥西心

人生は旅なのか。未来に向かって歩いていくのか。
それとも未来の時間のほうがやってくるのか。
それとも、行くと来る、どちらも同時なのか。
自らをモノとしてとらえると、そのように考えてしまう。人生を時間ととらえると、現在の時間の感覚でとらえてしまうので、そのように考えてしまう。
しかし、私たち人間は未来に向かって歩いていってもいないし、未来のほうから近づいてきてもいない。人生は降り積もる雪なのだ。
人間は現在に立ち尽くす。そこに時間が上から降って来て、通り過ぎて、下に落ちてゆく。ただそれだけ。
存在には、存在した途端に時間が与えられ、与えられた時間分だけ変化していく。80年存在したモノには80年間という時間が与えられ、80年分の変化をしていくのだ。
雪降る中に立つ郵便ポストは、一晩で雪に埋もれてしまう。一晩分の時間が与えられたからである。その郵便ポストが何十年間か立ち続けると、やがて朽ちて撤去されてしまう。
立ち尽くす私たちは変化していく。良い方向への変化を成長という。悪い方向への変化を堕落という。降り積もる時間の中で、私たちはどう生きようか。どう変化しようか。こころの変化だ。念いの変化だ。
達弥西心


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2009年06月18日

●未来の時間、現在の時間、過去の時間 - HMU 達弥西心

宇宙には、未来の時間、現在の時間、過去の時間というものがある。
私たちは一日24時間規則正しく流れていく「現在の時間」の中に生きている。
過去の時間は私たちの前を通り過ぎると戻っては来ない。振り返ってはダメだ。
未来の時間は自由奔放に動き回っている。その速度は速くなったり遅くなったり、伸びたり縮んだり、入れ替わったりする。
時は砂時計の中の砂粒だと思えばいい。砂時計をひっくり返して、上の部分にある砂が未来の時間だ。実に自由気ままに動いている。速く遅く、動いたり止まったり、入れ替わったりしながらくびれた部分に流れ込んでくる。くびれた部分が現在の時間だ。砂粒は実に規則正しく一定のスピードで通過していく。私たちはこのくびれた部分に生きている。下の部分に溜まっていくのが過去の時間だ。
未来の時間は現在に生きる私たちに近づいてくる。昔話『桃太郎』に出てくる川上から流れてくる大きな桃のようだ。未来から流れてきた桃(時間)を現在でおばあさんが洗濯をしながら待って取り上げてチャンスをつかんだのだ。
達弥西心


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2009年06月17日

●人生は旅なのだろうか - HMU 達弥西心

スティーブンソン(作家)が言った、「希望にみちて旅行することが、目的地に到達することより、よいことである。」と。
確かに、この世を生きることを思えば、こう思うことが得策なのだろうが、人生の目的地には必ず到達するものだと考えれば、この考え方は「逃げ」でしかない。
スティーブンソンはきっと知っていた、旅行を続ける人間は目的地にたどり着いたとき、消えてしまうことを。悲しい旅行だ。消えてしまうこと、無くなってしまうことを覚悟して、人は旅行に出ていくのだろうか。
私はこう思う、「目的地のはるか向こうの目指すべき地にあこがれて、希望にみちて旅行を続けることが、よいことである。」と。私たちは目に見える世界を通り抜けて、目に見えない世界にこともなく入っていく。人生旅行の目的地ははるか向こうの見えないところにある。無いから在るへ、在るから「無い」へ。その「無い」のところに目的地はある。
達弥西心


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2009年06月16日

●モノはなぜ消える - HMU 達弥西心

人はどうして死んでいくのだろう。
一度は真剣に考えたことがあったろう。で、答えは見つかっただろうか。ここでもまた矛盾の悲しみを味わったかもしれない。
人はどうして死んでいくのだ。モノだからだ。モノは消える。からだはモノだ。人間(モノ)は生まれてきた(現れた)から、死んでいく(消えていく)のだ。モノとは目に見えるモノのこと。目に見えるモノは例外なく消えていく。そう、まぼろしなのだ。
モノが「まぼろし」である前は、なんだろう。
無だ。そう、何も無かった。
そもそも宇宙は闇に覆われていた。したがって、見えるものは何も無い。見えないものだけがあった。モノは何もなかった。
そこに光があった。宇宙に見えるモノという存在が現れた。存在という現象が現れたのだ。闇が先、光があと。見えないものが先、見えるモノがあと。原因が先、結果があと。
無かったものが、在らせてもらったなら、無かった状態にして戻す。だから、人間は死んでいくのだ。在らせてもらう時間には、当然限りがあるのだ。
無いから在るへ、在るから再び無いへ。ぐるぐると回り続ける。
モノは消える。それを悲しいと思うのは。未練というものだろう。
人はまぼろしとしてこの世に存在し、消えていく。悲しみに浸らないで、悲しみをしっかりと見据えて、悲しみを越えていかなければならない。
達弥西心


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2009年06月15日

●モノは消える - HMU 達弥西心

強欲な心は、モノとして生きて、モノを取り込み、モノを自分のもとに集めることが価値あることだと思いこんで生きる私たちには至極当然のこと。人間のからだはモノである。なぜならばやがて消えるから。つまり現れては消えていく幻みたいなものなのだ。モノは消える。ココロは消えない。このまぼろしがどうやってからだを維持するかといえば、やはり幻であるモノを取り込み、集めるのだ。モノを食べると元気が出る。お金を集めると安心する。ココロあたたまる話を聞いただけでは元気は出るが、おなかは空く。食べ物という幻たるモノを、からだという幻たるモノの中に取り込まないと、幻として消えていく前に死んでしまう。
強欲な心は、取り込む、集めるにブレーキがかからなくなってしまうからだ。少しでも多いほうがよい。あれもこれも、もっともっとたくさん、とエスカレートするのは当然か。モノとして最期には、すべて自分から離していくことになるのにね。それを悲しいと思うのだ。せっかく集めたのに、と。
また、モノとして存在すると、やたらと順番というものが気になってくる。自分はあいつの上だろうか下だろうか、先だろうか後だろうか。本当はどっちでもよいのに。
いずれ消えるのに。
その自分なりの自分の位置を脅かされると、怒る。自分を重要に扱われないと不安になって、愚痴を言う。怒りの心も、愚痴を言う心もモノという存在の悲しみの表れなのだ。
達弥西心


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2009年06月14日

●どうして悲しいのかな - HMU 達弥西心

そもそも、強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心はなぜ起こるのだろう。いつから潜んでいたのだろう。人間ってそういうものよ、で片付けていいのかな。
強欲の心、怒りの心、愚痴を言う心は、私たち人間がモノとして生まれてきた悲しみから出発している。モノ? そう、目に見えるモノ(存在)として出現したことに由来する。
喜びを持つことは悲しみも持つことになる。目に見える存在として現われることができた喜びは、目に見える存在として生きていく悲しみでもあるのだ。
矛盾している。そう、矛盾こそが存在の正体なのだ。矛盾ごと丸呑みするしかない。
強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心はなぜ起こる、いつから潜んでいたという問題。
なんてことはない、この世に現われたとき、すでに持っていた。正確にいうと、この世に現れたから、持ってしまった。モノとして現われたから、モノが持つ悲しみを持ってしまったのだ
達弥西心


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2009年06月13日

●そういうふうにつくられているのかな - HMU 達弥西心

強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心をもつ人間は、そういうふうにつくられているのかな。
そうであっても、そうでなくても、喜んで生きていきたいはずの人間は、三つの毒を持っている人間は、悲しいと、私は思う。
この三つの毒から脱する方法として釈尊は、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の実践を教えている。戒、すなわち、ものごとの道理をよくわきまえ、定、すなわち、こころを穏やかに保ち、慧、すなわち、悪事を離れ善事を行うこと、という。できるのかな。一般社会の日常生活の中で、できるのかな。やらないといけないよね。苦行だね。悲しいねぇ。
達弥西心


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2009年06月12日

●三つの毒と百八つの煩悩 - HMU 達弥西心

人間は三つの毒を持っている。その毒によって百八つの煩悩が生まれ、人間は誰しもその煩悩に苛まれている。と、説いたのは釈尊だった。
三つの毒とは、強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心、という。
なぜ人間は三つの毒を持っているのだろう。素朴な疑問が湧いてくる。
はい。悲しいからです。存在することが悲しいからです。
そんなことでいいのですか?生きることは喜びのはずです!とお叱りを受けるかもしれない。
よーく考えてみよう。人間は、生きているだけで、どうして強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心が湧いてくるのか、と考えてみよう。不思議だろう?
強欲な心、怒りの心、愚痴を言う心は、喜びかな。悲しみだよね。
達弥西心


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