2009年09月24日

●明らかになる二番目、「見える世界の見えない的理解」 - HMU 達弥西心

だから、二番目としてね、「見える世界の見えない的理解」です。

これまた分かりにくいね。見える世界の見えない的理解をする、という。これをわかりやすく言うと、目に見えるモノがここにポンとある。これは成分が何で、どういうもので出来ていて、というのは見える世界の見える的理解だよね。だけど、これが出てくるということは、目に見えないところで誰かの念いがあって、こんなのを作ろう、と思ったはずだよね。ということは、目に見えるモノとして現れているけど、目に見えるモノの向こう側というか、このモノの中には見えないものが充分に関わっているし、この見えないものが関わらない限りこういうモノというのはできないよね、と思うのが見える世界の見えない的理解ですよね。だからそれが分かってくると、この絵には念いがこもっている、この絵には念いがこもってない、というようなことが分かってくるし、モノには念いが宿る、ということもね、それが分からないですよね。分からない。だけど、だんだん、だんだん分かってくる。これが見える世界の見えない的理解。

それで、見えない世界というのはどこにあるか、と言うと、あの世とかなんとか言うから遠いとこにあるみたいに思いますけど、すぐ横ですからね。すぐ横というか、一緒に、一体としてあるわけですね。目に見える世界そのものが見えない世界でもある、というかな。

だからある意味でこの世というのは、目に見えない世界の中に起こった目に見える現象。あ、これ一番分かりやすいね。目に見えない世界がごく当たり前にある。宇宙というのは目に見えない世界のことですから、元々。目に見えない世界に起こった目に見える現象の中を、我々は生きている、ということ。だから目に見える現象は一時的なものだから、必ず限りがあって消えていくと。すなわち言葉で言うと、「幻である」ということだね。

だから、明らかになるのは見える世界の見えない的理解ですね。見える世界の見える的理解をして行ったら半端。中途半端ですね。はい。

達弥西心

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2009年09月23日

●明らかになる一番目、「見えると見えないのコラボレーションの意味」 - HMU 達弥西心

はい、まずはですね、一番目は「見えると見えないのコラボレーションの意味が明らかになっていく」ということです。

コラボレーションというのは、この世の中は見える世界だから、見える世界だけで動いているとは、少なくとも皆さんは思ってないと思います。見える世界が拡がっているけれども、そのすぐ隣で見えない世界も拡がっている、ということだよね。あるというのはわかっていると思いますね。それが実は協力関係にあって、コラボレーションしている、という、コラボしている、という状態ですよね。

このからだだってそうだね。こうやってこの世に、「した」の世界に生まれてきたこのからだの中に、目に見えない世界、「うえ」の世界にいた自分自身が入ってきて、ここで二つがコラボしていくわけでしょ。それでこの二つでやっていくという、これがはたらきだよね。天のはたらきをからだはからだなりにやっている、自分自身は自分自身なりにやっている、というのが、今、私たちの人生というものですよね。

こうやっていくでしょ。そしてこのからだの方は、必ず時がくると朽ちていくわけですから、いなくなります。無くなりますよね。無くなったら、ずっと生き続ける自分自身が元いたところに戻りますよね。うえに戻りますよね。このことを繰り返しているわけです。これを「輪廻転生」と言いますけど、そういうことが、意味です。

なんでこんなことをしているのですか、ということですよね。もう答えは一つ。それを派遣して、どちらの管理者でもある天、からだの管理者である天、そして自分自身の管理者である天が、この二つをジョイントさせることで、自分自身は自分自身の修行をする、修行をするというか、いろいろな体験をする。

からだはからだなりにこうやって、ほんとに空中からこうやってクシュッと、つくった人間の形みたいなものですよ。天の方側からすればですよ。我々はこうやって生まれてきた、と言うんだけれども、あの、生まれるという仕組みというのは、ほんとにこう、なんにもないところからでしょ。

なんにもないところからゴボゴボゴボと出てくるわけですから、ほんとに長い時間、今はまだゆっくり動いているから分かりやすいけども、分かりやすいというか、疑問を感じないかもしれないけれど、ずっと遠くからこの動きを見ていたら、ほんとに何もないところから煙のようにゴボゴボと出てきて、ゴボゴボと無くなっていく、というのを繰り返しているわけだから、なんていうかな、我々は目に見えない方が無いと思っているけれども、目に見えない方がすごく信頼がおけて、しっかりとぐるぐる回っている。だけどここでゴボゴボと出て来てゴボゴボと無くなっていくという、これを何度も繰り返して、速いスピードで見たら、ほんとに何にもないところからウワウワッとなってウワッと消えているということだよね。

それを一緒にやっているということは、どちらの管理者でもある天からするとですね、この二人が一緒になっている時にこそ、天のはたらきをさせたい、ということになるよね。

天というのは光も司っているし、闇も司っている。だから光の天もいて、闇の天がいるというのは、当然だよね。それでそれを動かすために逆のはたらきをする逆の天というのがいて、光と闇を行ったり来たりしながら、つくっているわけですよね。はい。

このコラボレーションね。なぜこんな特殊なことをやっているのか、ということ、そこには大きな意味があって、いやあ、ちょっとそういうふうな仕組みにしてみたんだよ、などとは天は絶対に言わない。ね。思ってみればすごく不思議な世界だよね。そこに意思が絶対にあるはずだ、ということ。意志がね。意図、というかね。

達弥西心

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2009年09月22日

●二つ目の「へそ」は、「明らかになる(そういうことだったのかと納得する)」 - HMU 達弥西心

それでは、二つ目のへそにいきます。明らかになる(そういうことだったのかと納得すること)ということです。

今、そういう形で仕組みというのがわかったと思いますね。集めることが目的でほとんどの人が生きているかもしれないけれども、それじゃあないよね、 なぜならば手放すことを全員がするわけだから。その手放すことが目的でないと変だよね、と言っているわけ。でも、手放すことをやることによって寂しさが伴うのはなぜ?ということになってくる。寂しいということは、何か違うよね、と。集める、手放す、そして手放したらその次に目的があるはずだ、と。この仕組みですよね。この仕組みが分かるといいんで、ああ、そういうことだったのか、と明らかになる。これが、へそ。

はい、これはどこでわからなきゃいけないかというと、今、集めるというのはこの世の話。手放すというのはこの世からあの世へ行く話ね。ということだよね。そのさらに向こうと言ったら、見えない世界の話ですね。

見える世界に生きる。そして、見えると見えないにまたがるところを生きる。そして、見えないに行く。このプロセスは絶対に、どんなに誰がどう言おうと流れとして必ずあるよね。順番としてね。

だから、見える、見えない、プラス、そして、見えない、というふうにいくということは、集めるということと、手放すということを経て、その向こうに何かはたらきがあるはずだ。ということだね。

そうすると人間はそのどちらも体験するものだから、からだという、そのからだを主体に生きていく世界と、両方にうまくバランスを取っていく世界と、そして最後には全部無くなっていくという世界に突入するわけですから、ここは何で片づけるかというと、どういうはたらきで片づけるかというと、「逆というはたらき」で片づけるしかないわけですよ。

右回りにするかと思ったら、右回りをしながら必ず左回りを同時に、同じその大きさ、同じ強さ、同じ速さで回さないと、バランスが取れないというやつね。右回りだったら全部が右回りになったら振り回されちゃうんですね。だから右回りを回りながら、内側は左回りに回っているから、バランスが取れるわけ。この、「右回りに回っている内側で、同時に左回りに回るというはたらき」が「逆」というはたらきなんです。

逆というのは、片方だけを逆と言っているんではなくて、こっちの左回りからすると右回りは逆だよね。右回りからすると左回りは逆だよね、と。その逆というのが同じバランスで動かないと、バランスは取れないよね、ということを言っているわけですよね。これを「逆のはたらき」と言います。

だから●●●●●さんは、要するに悪者なのか、いいひとなのか、という話で。まあ●●●●●からいうとサタンとされているところがあって、悪者になっているわけですけれども、正義の味方がいる反面、というか、いる分だけ、この世的に悪いことをする人が半分いないとバランスが保てないということだよね。はい。

だから右回りのはたらきをする人と、左回りのはたらきをする人。目に見える方からいうと、右回りが正義であったら、左回りは悪になってくるんだけれども、全体的に見ると正義も悪もバランスよくあって、はじめて成り立っていくわけですよね。うん。それが逆という発想。

逆というのは片方から見て逆じゃなくて、片方から見るんだったら光に対する闇というのが逆ですよ。反対という意味ではね。闇から見ると、光が反対という意味です。

でもこの間のバランスを取りながら、ほんとに逆回りしていくというのは、片方から見て片方が逆、片方から見て片方が逆、というのが逆ということ。だから、要するに写真を撮るときのフラッシュみたいなもの。パッ、パッ、パッ、とこう、消えたり点いたりするということ。パッ、パッ、パッ、パッ、と点滅する感じ。ある時は光、ある時は闇、という、それが交互にくるとか、不規則にくるとか。そういうのが逆だよね。

「どちらが逆ですか?」と言ったら、いかにも闇の方が逆みたいに見えるけれども、光の方が逆になったりするよね。それで、そういうものは自分の心の中に持っていますよね。時にはいいことをしたいと思うし、時には悪いことをやっぱり考えるよね。

同時にやっぱり考えているよ。でも、どっちも正しいわけではなくて、いいことというのはこの世的にいいことであって。

それを逆に言うと、例えば自分が悪者になって、かき回すことも大事なことで、そういうふうにかき回すことによって、全体がまとまることだってあるわけで。悪者になるっていうのも逆だよね。全部逆。その悪者の中にいて、ちょっといいことを言うのがいたとしたら、こっちの人はいいひと、ということではない。この世の中は全部分けてしまうけど、こっちにとってこっち、こっちにとってこっちが全部逆になるということですよね。ということ。

さあ、その、明らかになるという。それが逆ということが出てくる理由なんですね。ここでね。はい。分かったか、分かんないか…。まあ、いいですね。これがね、七つあるんですね。どんなことが明らかになるか、ということね。

達弥西心

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2009年09月21日

●寂しくなる理由の四番目、「有限で消滅する存在として生きていく意味がわからないから」 - HMU 達弥西心

そして寂しくなる理由の四番目。いまのことをまとめたようなかっこうですけども、「有限で消滅する存在として生きていく意味がわからないから」です。限りがあって、しかも限りがきたらそれは無くなっていくという存在として生きていく。ですけども、その意味が分からない。何でそんなことするの、と。分からないから寂しい。それが分かったたら、ああこういうことなんですね、ということが分かれば寂しくないよね。

でももう、皆さん分かりますよね。有限であるということと、消滅する存在として今生きていく意味、というのがちゃんとわかっていますよね。

だから、天のはたらきをするためですよ。この間にからだを持たされるのは天のはたらきをするため。もともとからだの主も天ですし、自分自身の主も天ですから、人間の人生の管理者は、間違いなく天ですよね。それは天がこうやってからだを持たせてくれたその意味というのを考えると、天が自分の都合のためにつくっているわけですから、天の都合のために生きていかなきゃ意味がないよね、というわけです。

それがなんか、自分だけで意味があるような気がして、考えてさまようけれども、そこに無いんだから、無いんだからどんなに考えたって、ああ自分はこういう意味なんだと、いくら言っても虚しくなってくるよね。

いや、私はこれこれするために生まれてきたんだと、それははたらきはそういうふうにしたかもしれないけれども、それがほんとの意味だったのか、というとね、そうではない。それも大きな意味で、そのはたらきが天のはたらきと一致していればそれは意味があることでしょうけど、全然別のことで、これだけのことをやったんだと言っても、それがどうした?という感じだよね。

よく、あのね、侵略者というか、いろいろ攻めて全部自分のものに国をどんどんどんどんしていく、と。もう攻めるところが無くなった、という時には、攻めることが目的で、征服することが自分の目的だ、と言う王様がいたとしてもね、全部攻めきってしまうと虚しくなる。なんで?なんでこんなことしているんだろう?と。することがなくなってくると。ですよね。

だから天のはたらきというのは、天のはたらきを全部やり切った、と言う人はいなくて、どんなに言われてもレベルはどんどんどんどん上がってくるし、絶対にピタッとしたものをやれるわけがないわけで、やれなかったなあ、と残るから、また次生まれてきてやろう、ということになってくるわけですよね。だから、天のはたらきを全部やり切った人、というのはいないと思いますし、まあそれだけ天の念いというのを分かる人というのもいないだろうと思うし。少し、一部は分かってもね。ああ、こうかな、とね。少しでも、少しでも近いことをやっていくんですね。寂しくなるのはそういう理由ですよね。

だから人と交流することで楽しくさせようと思っていても、やがて寂しくなるのはそういう理由ですよ。そこに目的がないからだよね。

例えば、仕事でこれだけの成果を上げて、他の人たちからも評価されたとしても、それで満足と、そうは言わないよね。なんか違う、というね。こうでよかったんだろうかと思うのは、そこにあると思う。そういうことを思いますね。

そうすると、およそこの世の中で、我々がモノとして存在し、そしてモノに囲まれて生きていくこの世界の中で、これを使って天のはたらきができないか、と天は要求している。そこが分かってくると、この世の中で何かモノを集めること、それから作り上げること、成し遂げること、ということに目的を持ってくると、うん、一応は達成した、と。でも通過点だよね。その次どうなるか、と。

それは何で分かるかというと、集めたものというのは最後に全部手放さないといけないでしょ。手放すということは、最終的なところに目的に置かないにしても、自然の流れとして集めたものは全部手放す、というところに来るということは、その中に集めるということが目的ではないということだよね。成し遂げたって全部消えていくわけだから。全部手放していくわけでしょ。

全部別れていくわけですから、ある意味で言ったら、別れるというところに目的を持つんだったらそれは分かるけれども、集めることが目的ではない。集めることは通過点である、ということだよね。

そうするとお金の動きなんかもそういうことだよね。逆に言うと、お金というのはそれを使って、自分が手放すためにお金を集める、と言った方が近いかな。近いと思いますね。

だから、目的が、自分が願ってなくても必ず手放すことになるんです。全部捨てるじゃない。すべて別れるでしょ。その中に目的を求めるんだったら、ああ、そうかもしれないね、となるけれども。でも、手放すということが目的だとしたら寂しくなるね、と言っているわけだからさ。じゃあその手前の、集めることに目的を持ったらいいか、というと、集めても必ず手放すわけだから、ね。

そうするとどうもこの、集めるということを第一の目的としたとしても、ああ、そうじゃなかった。手放すことなんだ、というね。これを目的に持っていったら、なんとなくは、ああそうか、と分かるんだけども、でも寂しくなるということは、ここで寂しくなるということは、その向こうだよね。その次だよね。集めて、手放して、そのプロセスの中で何を目指したのか、何を目指すのか、ということ。

何をするのかというと、やっぱり自分自身が主体だと思うし、自分自身が天のはたらきを充分に行なうためにからだを道具として使ってくれた、と。そうなってくると寂しさというのは少し、少なくなっていくんじゃないかな。これを言っているんですよね、『ことばのよわんよ掘戮涼罎任諭これが、一つ目のへそです。

達弥西心

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2009年09月20日

●寂しくなる理由の三番目、「存在したら必ず消えていく、無くなっていく。跡形もなく無くなっていくから」 - HMU 達弥西心

そして寂しくなる理由の三番目。有限だけじゃなくて、三番目がですね、「存在したら必ず消えていく、無くなっていく。跡形もなく無くなっていくから」ということです。

ちらっとでも残らない、ということね。からだはね、残らないよね。止まって、そして無くなっていく。

無くなっていくというのは、もともと無かったんだから無くなるのは当たり前じゃないか、と。宇宙の方側から言うと、天の方側から言うと、自分自身の方側から言うと、それは当たり前のこととして言ってきますが、人間側から言うと、人間のからだ側から言うと、やっぱり生きたんだから、それなりの破片でもちょっとね、残ってもいいじゃないか、とね。生きてきた証、みたいなのが絶対あっていいんじゃないか、と思ってしまうんだけど、証も何も、何にも元々無かったんだから、フッと消えるようにして無くなる、というのが存在するものの宿命というか、極々普通のこと。だから、存在したら必ず消えていく、無くなっていく、ということですね。昔のフォークソングに「パフ」という歌がありますが、あの、ろうそくを息を吹きかけて「パフ」と消すように、一瞬にして消してしまう、あんな感じです。

まあ、自分が集めたモノは少しの間は残りますけど、でもいずれ消えていくよね。自分が愛用していたものとか何とかって。どんなに保存したって、最後には無くなるわけですから。モノはとにかく消えていくんですね。それが寂しくなっていく理由です。

達弥西心

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2009年09月19日

●寂しくなる理由の二番目、「目に見える存在には存在する期限、限りがあるから」 - HMU 達弥西心

そして、寂しくなる理由の二番目が、「目に見える存在には存在する期限、限りがあるから」。有限だから。有限ということは、いずれにしろ必ずさよならする時が来る、別れの時が来るということね。今じゃないかもしれないけれど、いずれ別れが来る。

私はいろんな人とのトラブル、トラブルじゃない、向こうが勝手に言ってくるんだけれども、いろんなことを言われても、百年経ったらあなたもいないし、私もいないからね、というのがいつも自分の中にありましたね。実はあれはね、歌なんですよ。

フォーク・クルセダーズという、例の『オラは死んじまっただ』の、あの一発で終わった、一発じゃないな、二発か三発いったんですけど、あの人たちのLPの中に入っている、『百年たったら』という歌があって。もう歌詞はこれだけなんだよね。百年たったらあなたもいない、私もいない、というね。

この歌聴いたときに、そうだよね、と思ったんです。これは素晴らしいことだ!と。

だから悩みというのは百年たったら必ず消える。第一、悩みの元であるあなたもいないし、私もいないわけだから、と。限りがある、と。でもね、限りがあるということはね、自分は必ずさよならしなきゃいけない時が来る、ということだよね。

寺山修司という人が、先輩作家の井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」という言葉を引用して逆さ言葉にして「ダイセンジカケダラナヨサ」という言葉を残していますけれども、ほんとに私は「別れというのは、出会ってしまったら必ず別れる」、これをずっと思っていましたね。うん、だと思います。でもそれが、その別れがどういう意味があるのかというのが分からなかったから、悩みでもあったんですけど。でも別れは当然のことだよね。

これはよく話をするんだけれども、無い無い無いと、宇宙は無いものだけがあったわけですから、無いものだけがあったんです。これまた引っかかる人がいるんだけれども、宇宙はそもそも無いものが自然だったわけでしょ。もう光もないわけですから。

すべてはモノとして無いわけで。人間がいてもしようがない。見えないものがいても、あってもしようがないから、見えるものとしては何一つ、無かったわけですから。つまりは、宇宙には無いものだけがあったというわけですね。無い無い無い、無いのが当たり前。

それが無い無い無い無い無い、とぐるぐるぐるぐる回っているのに、突然こう、有る、というところが出てきたんですね。有る存在という、自分自身が、有ることが絶対無いのに、突然、有ったんですよね。有らせてもらったんですよね。無い無い無い無い…。有る!と来たんだよね。

これがまた有るというのがですね、今、限りの話をしていますよね。まず、無いというのがずっと永遠に無いわけですから、これがもう期限も何もない、無期限だよね。

そこに有るというのが、ずっと有る有る有る有るで、永遠に有るんだったら誰も悩みやしないんですよ。寂しくならないですよね。だって、別れることがないんだもん。

ところが、無い無い無い無い…。有る!ときた時に、有る有る有る有る…。そしてまた、無いに戻るっていうところ、です。

自分の都合から言ったら困るんですけど、困るんだけども、宇宙の都合からすると当たり前だよね。もともと無いんだから。たまたま有らしてやっているんだから、無くなるのは当たり前。無いところに有らせているわけだから、必ず無いに戻るのは当たり前じゃないか、というのを思う。そりゃ、そうだよ。どんどんどんどん増えてしまうと宇宙がいっぱいになっちゃうからね。だから無いに戻るわけ。はい。そういうことです。

だから、「なんで死んでいくんですか?」と言ったら、「そりゃあ、生まれてきたからよ」ということになる。当然のこと。私は中学生か小学生の頃に随分そのことで、なんで人間死ぬんだろう?と考えたことがあるんですね。一生懸命考えたけど、答えが分からなかったんですね。ずーっと生きていてもいいじゃないか、と思ったし、死ぬ時どうなるんだろう?と思っていたんですね。

ところが達弥西心になって、うえに聞いたら、あっさり言われた。「なぜ人間は死ぬんですか?」と聞いたら、あっさり言われた。あの頃暇だったからいろんなこと聞きましたけどね、小さい頃に思っていた疑問を全部聞いたんですね。そうするとあっさり答えた。「それは当たり前じゃないか。おまえが、生まれてきたからだよ」とね。生まれてきたものは全部死ななきゃいけないと、そういうのが、宇宙の法則ですよね。

それでそれを、そうなんだ、と完全に思い切れば、寂しくないんだけど、いやだ、とどこかで、この有ることが当たり前、当然で、有ることがもともと中心で、無いことが不自然だと思っているところがあるから、どこかでいやだ、というところ、寂しくなってくるところがあるよね。いつまでもそれできないわけだから。ということです。目に見える存在には必ず存在する限りがあるわけですね。「有限であるということ」。はい、これが、人が寂しくなる、二番目の理由です。

達弥西心

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2009年09月18日

●寂しくなる理由の一番目、「目に見える世界を、目に見える存在として生きていくから」 - HMU 達弥西心

寂しくなる理由の一番目、まずはこの世をですね、この世というのは目に見える世界ですね。「目に見える世界を、目に見える存在として生きていくから」です。目に見える存在として生きていく、ここにポイントがあってね。「目に見える世界を目に見える存在として生きていくから」。これが一番の理由ですね。

もし目に見えない世界を目に見えない存在として生きていたら、寂しさは感じないと思います。永遠に目に見えない存在として居続けるわけですから。目に見える存在になるということは、いずれ目に見えない存在になるということを知っているからですよね。簡単に言えば、こうやって生きているけれどもいつまでも生きていくわけではない、というのを誰から教えられたわけじゃないけど、なんとなく知っているよね。なんとなく知っている。

ああ、この間のラストライブの時にね、私、108まで生きると言っていましたけど、実際は70いくつか、80くらいかなあ、と思っていますね。でも108まで生きたとしても、109とか110は難しいかなあと、どこかで思いますよね。108、生きるもんか、みたいに思っているかもしれないけど。もう、絶対に生きてやるんだからと思っていますけどね。それでもやっぱり必ず終わりが来るよね。消えていくんですよね。はい。まずこの一番目は、この「見える世界を見える存在として生きていくから」という理由。

達弥西心

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2009年09月17日

●第一番目のポイントは、「寂しくなる」 - HMU 達弥西心

はい、まずですね、へその第一番目のポイントは、「寂しくなる」です。

人はどうして寂しくなるんだろう、と考えてみたことありますか?寂しくなる理由。

いままで寂しくならなかった人はいないですよね、恐らく。なんかわけもなく寂しくなったり、それから、どう考えてもこんなところで寂しくなる場面じゃない、というのに寂しくなったり、全然理由もないのに突然どん、と重たくなって寂しくなったりしますよね。

まあ、私が寂しくなるというのは、振り向けばいつも君はいなかった、の、あの時ですね。寂しくなる。しょっちゅうでしたけどね。やっぱり、このことをまず解明する、ということやっていかなければいけませんね。四つあります。
   
寂しくなった時にまず、この寂しさをどうやって解消すればいいんだろう、という時に、たいていこれだったら片づくんじゃないかなと思って、人と交流することをたいていの人は選びますよね。ああ、一人だから寂しいんだ、と思ってしまうから。誰かがいれば、と。

だけど私、自分の体験ですが、人がたくさんいればいるほど自分の孤独感というのを感じていました、若い頃よくね。たくさんいればいるほど、この人たちとはわかりあえないと思っていましたから、多くなればなるほど孤独感を感じて寂しくなっていましたけど。あれは何だろうと、すごく不思議な感覚でしたけどね。群衆の中の孤独とかなんとか、言ってね。

でも、この寂しさを人と交流することで楽しくさせようとする人は、やがてまた寂しくなりますよね。ずっと一緒にいられないし。だから人と交流することが寂しさを解消する方法ではない、と思う。一時的にはなんとかなるけれども、根本的な解決ではないというのは、なんとなく分かると思いますね。そうすると、どうも問題はそこではないらしい、ということになってくると思います。はい。そうするとですね、この理由、寂しくなる理由が四つあります。

達弥西心

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2009年09月16日

●「へそ」の三つのポイント - HMU 達弥西心

はい、そのへそは三つあります。逆というところではあるんですが。はい。

まず、ですね、一番目のポイントは、へそはですね、「寂しくなる」(人はどうして寂しくなるのだろう)ということです。

今まで一度も寂しくならなかった人はいないですよね。寂しくなるというのは、あれは不思議ですよね。何で寂しいんだろう?と。いろいろと言い訳はつけますが、分からないですね。

そのことがこのことばのよわんよ靴播舛┐燭い海函なぜ人は寂しくなるんでしょう?というね。なんで人間は楽しくてしょうがないんでしょう?というのは問題にならなくて、寂しくなる理由がある、ということ。はい、これが一番目のポイント。

そして、二番目のポイントは、へそは、「明らかになる」というね。ああ、そういうことだったのか、ということを納得することです。納得するためには目に見える世界と目に見えない世界が同時に進行しているわけですから、当然矛盾というものがあって、その矛盾はなぜ起こって、どうすれば矛盾というのが一つに融合されるのか、それを飲み込めるのか、というところです。ああ、そういうことだったのか、ということがわかることが二番目のへそ。

そして三番目が、始まって無くなる、ということ。人生は始まって終わるのではなく、有って無くなるのだということ。これが三番目のポイントですね。

以上、この三つのポイントが、「へそ」です。この本『ことばのよわんよ掘戮里悗修任后

達弥西心

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2009年09月15日

●「へそ」はどこにある - HMU 達弥西心

そうすると、この「へそ」はどこなんだろう?と、たぶん皆さんも予習してきた人は、一応、ここと、ここと、ここじゃないかな、と見てきたかもしれませんし、まったくやってこなかったかもしれませんが、恐らく●●●●●さんとか、あのへんの話じゃないかなあ、とね。

矛盾というものをどうやって克服したかという、一番の人というのは●●●●●という人だと思いますね。人、というか意識体というかね。天のもとにいた人がこうやって闇に下って、闇に引きずり込むという役割をしながら、でも結局は天のもとにまっすぐつながるような人を育てるという、そういう役割をしている。というね、まさに逆の人ですね。

ほんとまったくあの矛盾というか、矛盾をそのまま地でいっているような、そういうところがポイントなんじゃないかなあ、というふうに恐らく思われると思います。はい。

そこまでの理解で間違いないんですけれども、じゃあそうなって行くのはなぜなのか?というところですよね。なぜそういう逆というはたらきが必要になってくるのか?というところが、へそになってきます。

達弥西心

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